Hōjō Aritoki
Samurai of the middle Kamakura period

Hōjō Aritoki

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Intro
Samurai of the middle Kamakura period
A.K.A.
Hojo Aritoki
Gender:
Male
Places:
Work field:
Birth:
7 July 1200
Death:
23 March 1270
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Introduction 経歴 年譜 脚注 関連項目
The details
Biography

Introduction

北条 有時(ほうじょう ありとき)は鎌倉時代前期から中期にかけての武将。北条氏の一門。父は鎌倉幕府2代執権北条義時。3代執権北条泰時の異母弟にあたる。母は側室で伊佐朝政(常陸伊佐氏)の娘。伊具流の祖。初代執権北条時政の孫で、源頼朝正室の北条政子は伯母にあたる。

経歴

義時の4男であるが、通称は六郎であり、義時の葬儀の際の序列は、正室所生の弟政村・実泰より下位の最後尾に位置づけられている。

承久3年(1221年)の承久の乱では兄泰時に随伴して京都へ進撃する軍勢に参加した。将軍の近習、鶴岡八幡宮奉幣使などを歴任、仁治2年(1241年)、42歳の時に評定衆に選抜されるも、同年、辞任を申請するも受理されなかった。2年後の寛元元年(1243年)に病を理由に引退し、以降、文永7年(1270年)に71歳で没するまで出仕することはなかった。

『吾妻鏡』ではその出産記事があること、また仁治2年(1241年)11月30日条には他の記事への追記で有時のことが記されていることから、有時の子孫に伝わる記録が『吾妻鏡』の編纂資料の一部として使われた可能性もある。

讃岐国守護職を務めており、この守護職は、宝治合戦で衰亡した三浦氏を譲渡されたものだという。

年譜

  • 1200年(正治2年)5月25日生であることが『吾妻鏡』に記されている。
  • 1222年(貞応元年)12月21日 大炊助
  • 1232年(貞永元年)6月29日 従五位下、同日民部少輔
  • 1237年(嘉禎3年)7月13日 従五位上、民部少輔を辞す。同年11月29日駿河守
  • 1241年(仁治2年)6月7日 正五位下、同年評定衆であることが『吾妻鏡』で確認される。
  • 1243年(寛元元年)『吾妻鏡』3月19日条にまで活躍していることが確認される。
  • 1270年(文永7年) 3月1日出家(法名蓮忍)、同日卒。71歳

脚注

  1. ^ 「関東評定衆伝」没年より逆算
  2. ^ 『吾妻鏡』仁治2年(1241年)11月30日条に「今日駿河守有時評定衆を辞し申すと雖も、許容無しと」追記されている。
  3. ^ 『吾妻鏡』1200年(正治2)5月25日条に「江間殿妾男子を平産すと。加持の為、若宮別当去る夜より彼の大倉亭に坐せらる。今朝羽林御馬を遣わさる。尼御台所(政子)産衣を給うと」とある。
  4. ^ 『吾妻鏡』1243年(寛元1)3月19日条に「午の刻将軍家二所御精進屋に入御す。駿河の守有時の亭なり」とある。

関連項目

  • 北条氏 (伊具流)