本多忠高
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本多忠高

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Gender:
Male
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16 April 1549
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Biography

Introduction

本多 忠高(ほんだ ただたか)は、戦国時代三河国武将松平氏の家臣。子に本多忠勝

生涯

本多忠豊の長男として誕生。弟に忠真がいる。

父同様、松平清康松平広忠に仕えた。天文16年(1547年)、松平一族で、家督を狙う松平信孝が反乱を起こした際にも出陣し、また、翌年にも、尾張国織田信秀が三河国に侵攻すると、今川氏太原雪斎と広忠は小豆坂にて迎撃し、忠高もそれに従い織田軍と戦い、勝利を収めた(小豆坂の戦い)。

本多忠高
:戦死地に立てられた本多忠高墓碑(愛知県安城市)

しかし、天文18年(1549年)3月、主君・広忠が岡崎城内で岩松八弥に暗殺され、松平氏や三河国人衆は大きく動揺した。今川氏当主・今川義元は三河国人衆が織田氏に寝返ることを恐れ、腹心の太原雪斎を送って織田氏の三河国の拠点であった安祥城を攻めた(第三次安城合戦)。守将の織田信広は城をよく守ったため、忠高は大久保忠俊らとともに夜襲に及び、戦果を収めたが、翌日の戦いにて敵の矢に当たって討死した。

墓所は妙源寺(愛知県岡崎市大和町)。戦死地の安城市安城町赤塚(安城市歴史博物館横・大乗寺の境内)にも墓碑が建てられている。

その他

柳営秘鑑:巻ノ三には、徳川家康の扇の御馬印は、天文18年(1549年)の安祥城攻めの時に、討ち死にした本多忠高に由来するという、その子・忠勝が継承し、文禄2年(1593年)に、家康の所望で馬印にしたとある。

三河安祥之七御普代に数えられる(柳営秘鑑巻ノ二)。

関連項目